ジャカルタでの日々

アラフォーでジャカルタに移住した体験談

あれから1年が経ちました。

ちょうど1年前のこの時期、遠い親族を頼ってJakartaに来ました。厳密にはSouth Tangerangに住んでいる親戚の家を起点にし、3泊4日で祖母の生まれ故郷であるManadoに行き、またSouth Tangerangに戻ってきて、今住んでいるここJakartaという都市を目の当たりにしました。

そこまで海外志向ではなかった自分ですが、若い人がたくさんいて、新しいビルがどんどん建設されている反面、まだまだ発展途上に見える街並みを見て、これから成長をしていくのだろうと何となく感じたのですよね。国が成長するとはこういうものなのかと、感銘を受けたことをよく覚えています。そして、インドネシアの遠い親戚達は毎日を笑顔で過ごしていて、家族愛に満ち溢れ、インドネシア語を全くできない僕と懸命にコミュニケーショを取ろうとし、少しでも意思が通じると声を上げて喜ぶ姿を見て、そういえばこういうこと、忘れていたなぁって心が温かくなりました。どこか血が繋がっているというのはありますが、でも優しい人ばかりなのです。

日本に帰国してからも、ボーッとしていて、たった1週間ほどのインドネシアでの日々が強烈な印象を残していて、ずっと消えませんでした。ああいうところで生活したり、働いたりしたら楽しいのではないか。そんなことを自問自答していたのが、昨年の8月でした。いつもだったら楽しいと感じることが、どこか物足りなくなっている自分がいて、非常にもどかしかったことをよく覚えています。どこか心ここにあらず、という状態でしたね。

気付けばインターネットでインドネシアへの移住のことを調べていて、何よりもまずは仕事がないとどうしようもないということで、インドネシアにある日本人専用の転職斡旋をしてくれるサイトに登録したのが9月。履歴書を書いてエントリーしたら、あれよあれよと話が進み、Skypeで一度面接をして、その後一度来てくれないかということで、LCCでエアチケットを買って来たのが10月。そして縁あって今働いている企業に現地採用という形で入社が決まり、VISAの関係等もあり、実際に移住したのは今年の2月でしたね。

これは誰かに相談をせず、自分の中だけで決めました。相談のしようが無かったというのもありますが、決めるのは自分自身だなと感じていたからです。全てをほぼ決めてから親に話し、僕は言ったら聞かない頑固な部分があることを知っている親は、仕方ないなと言ってくれたのを覚えています。

海外移住をしている人はたくさんいます。それぞれが、それぞれの想いや理由があって海外に出てきていることと思います。でも、ただ一つ言えることは、覚悟をして来ているのではないかということです。ある意味、いろいろなものを手放さなくてはなりません。使い慣れた言語での生活、いつでも遊べる仲間達、そして家族との物理的な距離、などなど。

20代であれば、勢いで来てしまうというのも僕はいいのではないかと思います。しかし、30代になると意識をしていなくても守りに入ってしまう部分があることを否めません。特に仕事を辞めて、転職と共に海外移住をするということは、僕にとってもやっぱり覚悟は必要でした。でも飛び込むかどうかを決めるのも自分自身。当たり前ですが、誰かに言われたから来たというものではありません。選択に間違いはなかったと今、僕は胸を張って言えます。まだまだ毎日が知らないことに触れられる日々ですからね。

でも、きっかけというものはどこに転がっているのかわからないものですね。僕自身が驚いていますから。だから、年齢を理由に海外移住を諦めている人を、僕は勿体無いのではないかと思いますよ。もちろん、結婚していて子供がいて、という自分一人で決めるのはなかなか判断が難しいという場合は除きますが、一人で動けるのならば、飛び込んでみることは一つの道ではないかと考えます。覚悟さえあれば、できるのではないでしょうか。まぁ、英語は多少できるに越したことはないですけどね。

とは言っても、簡単に海外移住をお薦めすることを僕はしません。何でもかんでも海外の方が良いというのはまた違うとも考えていますから。日本でだって、まだまだできることがあるはずですからね。

ちょうど1年前に遠い親族と会おうと決めて、Jakartaに来ていなければ、僕は今ここにいません。これは間違いようのないことです。そしてもっと言えば、祖母がインドネシア人であったこと。そんな祖母とManadoで知り合い、現地で結婚してすぐに日本へ帰国した祖父。もう2人とも他界していますが、どこか2人の想いもあるのかなぁと振り返ることは多いです。彼ら2人がいないと僕自身はこの世に存在していないのですが、どこかルーツを感じている自分がいるし、そこにはやっぱり祖父母の存在があります。

 

しかし、Manadoにはまた行きたいですね。Jakartaからけっこう遠いのですけど、Manadoにもたくさんの親族がいて、彼らとの日々は毎日がお祭りでした。ずっと笑顔だったと思います。もちろんここJakarta周辺の家族も大好きなのですが、今はちょこちょこ会える環境におりますので、なかなか会えない彼らとまたたくさん笑い合いたいなと思う次第です。

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Manadoというか、Manado市街地から東に車で2時間ぐらい行ったところの、Batuという祖母の生まれたところに滞在した時の写真ですね。家の後ろがこんな感じでした。ジャングルじゃん!って笑ってしまったのですよね。ここには曾祖父母や祖母のご兄弟のお墓があって、お参りしましたね。ウルルン滞在記みたいでしたし、この日は特に忘れられないですね。

 

そんなことを思った今日の1曲はこちら。


Pigi jo deng dia - Jeroen Claase

  

インドネシアの親族たちは歌うのが好きなのですが、この曲を1年前歌っていたのですよね。なんでもManadoに関係した歌だったと記憶しています。調べるとカバーをたくさんされているようで、どれがオリジナルなのか、実はまだわかっていないのですが、帰国してからiTunesで買ったのがJeroen Claaseのものだったので、こちらで紹介しました。これを聞くと、1年前のあの日々を思い出しますね。

 

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